2012年05月23日

『Kの夜話』(23)

『Kの夜話』(23)
     如月マヤ


「というわけで、K、塾の前に、ちょっとドライブしないか?」
「やっぱり。そう言うと思ってたよ」
「じゃあ、決まり。俺が運転するから、お前は後ろの床に隠れててくれ。上から何かかけておくから」
「やっぱりなあ。そんなことじゃないかと思ってたんだけどさ」
 Kはしぶしぶ立ち上がった。米原は、ごちそうさまを言うと同時に皿とグラスを流しに置き、ズボンのポケットから財布を取り出した。
「ヨネさん、水くさいことしなくていいのに」
「飯うまかったし、車借りるし、ガソリン代もかかるだろ」
 米原はニッと笑うと、千円札を二枚、マグネットで冷蔵庫にとめた。それから、ふと思いついたように、真顔で呟いた。
「今日あたり、初雪が降るかもな」
 Kは無言で頷いた。急に気温が下がった気がする。調理と米原のトレーニングのおかげで狭い部屋は暑くなっており、男二人には冷やした麦茶がちょうどよかったのだが、Kは今になって熱いお茶が飲みたくなった。外気が緊張している。室内にいてもそれがわかった。
 アパートを出る前に、Kは今日の担当講師になっている大学生の石塚とリチャードに電話をかけ、それぞれの携帯電話に、自分が今日遅れるかもしれないというメッセージを残した。Kが遅刻して教室の鍵を開けられないときは、商店街の中にある管理会社に鍵を開けてもらうことになっていた。今日は多分遅刻するか、もしかしたら欠勤するかもしれない。Kはそんな気がしていた。遅刻も欠勤も、Kには塾を開いてから初めてのことになる。石塚君はいちばん長くアルバイトをしてくれているし、細々した事務もわかっているから、自分がいなくても滞りなく一日を終えてくれるだろう。そう思ったとき、Kの頭に、今までとは違った考えが浮かんだ。石塚君は来春大学を卒業する。そのために彼は、この塾を理解してくれる後輩を次の講師に推薦してくれていた。彼はその後輩を時々塾に連れて来る。Kは石塚の思いも、彼の後輩がこの塾に気持ちよく参加してくれるのも、言葉にできないほどありがたかった。
 できれば、石塚君のような人にはずっといてもらいたい。しかしそのためには、自分が、その人の身分と生活を保証できるような雇い方をしなければならない。この塾に、就職先としての格がなくてはならないのだ。その力を自分は持つことができるだろうか。自分には、そういう責任を負い続けることができるのだろうか。自分がその責任を持つ、それができる自分になる、と言い切ることができるだろうか……。しっかりしなくてはならない。自分の意識を成長させ、それを行動で表せば、世間や人のために貢献することにつながる。そして、自分の目にしたい輝きを、もっと多く目にすることができるだろう。Kの心は決まった。次の目標が定まった。

 軽自動車の後部座席に身を隠すのは窮屈だったが、別荘地にさしかかったところでKは床に伏せ、その上から米原が、Kの部屋から持ち出した毛布をかけた。
「ここからは道が曲がりくねっているから、気分がわるくなったらすぐ言ってくれ」
「もう、なんか気持ちわるいよ」
 Kは毛布の下で目を閉じ、できるだけ楽しいことを考えて気を紛らわそうと努めた。外が見えないと、方向の感覚も時間の感覚もなくなる。車のタイヤが地面と擦れる音だけがKの周りを取り囲み、耳の中で反響していた。アスファルトの上の細かい砂粒が、タイヤの回転とともに、ざらざらという音を規則正しく反復している。それに耳を傾けているうちに「舗装道路を外れるぞ」という米原の声がして、車は軽くバウンドすると、土と砂利の混じった道に入った。小刻みで不規則な振動に四方八方から揺さぶられて、Kはめまいがしてきた。しかし、それが吐き気に変わる前に車が止まったので、Kは心底ホッとした。
「今、長谷川の家の前だ。家の中から誰かこっちを見ている。俺は車から降りて、少し話をする」
 サイドブレーキを引きながら、米原が前を向いたまま、口を動かさないようにして喋っているのがわかる。Kは了解のしるしに、後部ドアの内側を指先で二度はじいて合図を送った。「よし」と言うように間を取ってから、米原はドアを開けて車から降りていく。ドアは広く開けたままだった。一見無造作で、何事にも無頓着で隙があるように見せているが、米原に抜かりがないことはすぐにわかった。車は長谷川の家に向かって、下手な駐車のように、後ろから斜めの角度で止めてある。米原は車から降りる際、運転席を前にスライドさせていた。その隙間から、Kは外の様子を細く覗き見ることができた。外から見れば、米原は、ほかに誰も加勢を連れておらず、ドアを開け放して何の防備もないことを露呈させている、油断と隙だらけの来訪者だ。
 米原は全身から力を抜き、手ぶらで鈍いような動作で歩いている。しかし、米原がゆっくり移動するその範囲は、Kの狭い視界にきっちりおさまっているのだった。そして、Kの視線の先、Kに声の届くところで米原は歩みをゆるめ、なんとなくといった感じで立ち止まった。家から出てきた長谷川らしき男性が、こちらに向かって歩いてくる。その歩調に合わせて、米原は自分が意図した地点へと進み、長谷川とちょうどいいタイミングで出会うようにそこで立ち止まったのだ。無駄も無理もなくKからすべてが見える地点。その場所に自然におさまるように、米原は長谷川を誘導したのだった。しかし長谷川はそれには気づかない。自分の意志でそうしたとしか感じられなかっただろう。それはきっと、長谷川の後ろからやってきた洋子も同じだ。
 長谷川と洋子は、今、Kの視線の正面にいる。長谷川は米原にやや近寄りすぎているように見えるが、それ以上先には訪問者を入れまいとする、無意識の威嚇なのかもしれなかった。洋子は長谷川の斜め後ろに立っているが、米原からはわずかに距離を取りすぎているようだ。本能的に傍観的な位置から自分の何らかの立場を示そうとしているのか、それともこの突然の来訪者を観察し、その意図を探ろうとしているのかもしれなかった。それらの気配を確認したからなのだろう、米原が不器用そうに身分証を取り出しながら、のんびりした口調で長谷川に話しかけるのが聞こえてきた。
「ああ、どうも。寒いところ、どうもすみませんねえ。前之坂警察署の米原といいます。生活安全課なんですけどね。ちょっと見て回ってるんですよ」
 長谷川は愛想のいい表情を作って「ああ、そうなんですか」と返事をしているが、目は警戒し、強気のような姿勢とは裏腹に、怯えているようにも見えた。
「ほら、このところ、いろいろあったじゃないですか。宅配の人が見つからないってことで。多分、ほかの刑事も、この辺りの人に話を聞きに来たりしてるんですけど。あ、お宅には聞き込みに伺いましたかねえ?」
「ああ、そういえば、刑事さんが来ましたね。うちが最後の配達先だったそうで。ええと、確か、あれは……」
 そのとき、葉の落ちた木立を揺らして、強い風が吹いた。一瞬凍えて肩をすくめた長谷川は、言葉を途切れさせたまま、戸惑ったように口をつぐんだ。米原の背中は脱力したままだ。「どうしました?」という顔で、屈託なく長谷川の次の言葉を待っているのだろう。しかし、ここに車を止めてから、米原が緊張を解いた瞬間はない。この一瞬で、緊張を高めたはずだ。なぜなら、この寒風が、付近のどこかに沈殿していた臭気の塊を運んできたからだ。
 その臭気は空気中に拡散することなく、地面を這い、ドアから車内に入り込んでKにからみついた。日照時間が短いこの時期は、湿ったまま乾かない土と落ち葉の混じった空気が、別荘地を特有の感傷的な匂いで満たす。しかし、この臭気は違う。肉の臭いだ……。考えなくても、Kにはわかった。会社に勤めていたときに、食品管理の研修で嗅いだことがある。生肉を放置しておくとどうなるか。しかも食肉ではなく、血抜きをしていない、数十キロの生の肉ならば……。
 臭気はその源のありかを激しく主張するように、家の前に立つ三人を強烈に取り巻いている。誰もこの臭いを指摘しなかったら、不自然だ。
 そのとき、Kの視界の中で米原が動いた。

(続く)


posted by 如月マヤ at 12:42 | 「Kの夜話」 | 更新情報をチェックする